






いんようし(台湾の民俗神役)
12.9-12.11
陰陽司は⻘⼭王の配下の⼀役で、顔は半分が⿊く半分は⽩く、陰陽両界を司り、善悪を明確に分けることを象徴しています。左右の⼿にはそれぞれ朱筆と書巻を持ちます。⻘⼭王が巡⾏する際には、陰陽司は真⼈が⿊⽩の隈取で化粧して扮し、⻘⼭王と共に冤魂の訴えを受けます。

⻘⼭宮⼋將團
12.9-12.11
⻘⼭宮⼋將團は年に⼀度、⻘⼭王の出巡時にのみ現れる陣頭で、主な任務は主神である⻘⼭王を護衛することです。すでに百年以上の歴史を持ち、使⽤される臉譜(れんぷ:仮⾯)、⾐装、武器は⼀世紀にわたって受け継がれてきました。中でも、伝統戯曲の演技「⻤步(きほ)」を基に改良された「三步贊(さんぽさん)」は、この陣頭ならではの⼤きな特⾊の⼀つです。

轎前執事(きょうぜんしつじ)
12.9-12.11
執⼠隊(または執事隊)は、古代皇帝の⾏幸を模して、道を開き護衛する儀杖隊です。その中で⽤いられる彩牌(さいぱい)は、道を開く役割を担っています。隊列の執事牌には「⼤宋明⾂」と記されており、伝説によれば、⻘⼭王は宋代において戦に助⼒し、皇帝を救った功績により、皇帝から⼆度にわたり勅封を賜ったとされています。これはこの⾏列の⼤きな特⾊の⼀つです。

轎前天地掃(きょうぜんてんちそう)
12.9-12.11
尊王の神轎の前で道を清める「天地掃」隊列は、⼥性信徒とボランティアで構成されています。彼⼥たちは両親の健康や、⼦どもの仕事運の順調を祈りながら参加します。隊員たちはボランティア⽤のベストを⾝につけ、笠をかぶり、⼀⼈ひとりが箒を持ち、災厄を掃き払い福を招き⼊
れることを象徴しつつ、尊王のために沿道を清掃して道を切り開きます。

尊王轎前換花儀式
この儀式は、艋舺地域の伝承に基づく独特な⾵習です。遶境の期間、地域の⻑⽼たちは尊 王に⽟蘭の花を授かるよう祈り、それを家に飾って⾼齢の家族の健康や無病息災を願ってきました。こうして根付いた⾵習が「尊王轎前換花儀式」として受け継がれています。今年の「乙巳年艋舺⻘⼭王祭」でも三⽇間の⾏事期間中に尊王の神轎の前に⽟蘭の花が掛けられ、参拝者に授与されます。

真⼈藝閣⾞(げいかくし)
12.9-12.10
あんぽう/夜の巡行の一、二日目
今年の「乙巳年艋舺⻘⼭王祭」では、百年前に⾏われていた藝閣⾞と呼ばれる伝統的な⼭⾞が復活します。舞台のように飾られた藝閣⾞に、歴史や物語の登場⼈物に扮した⼈々が乗り込み、沿道を練り歩くものです。暗訪(あんぽう/夜の巡⾏)の一、⼆⽇⽬の⼆⽇間、⻄⾨町では⼆⼗六台の真⼈藝閣⾞が登場します。きらびやかな灯りで飾られた藝閣⾞は、沿道でお菓⼦やおもちゃなどの平安グッズを撒き、艋舺ならではの幻想的なカーニバルの雰囲気を醸し出します。

四⼤軒社(けんしゃ)
12.9-12.11
台湾北部の廟会では、陣頭(ジントウ:⺠俗芸能の⾏列)を構成する軒社(けんしゃ:北管⾳楽の演奏団体)と、北管⾳楽の伴奏で登場する神将が⽋かせません。⻘⼭王の巡⾏三⽇間には、百年以上の歴史を持つ「義英社」「義安社」「鳳⾳社」と、⼗数年の歴史を持つ「艋舺⻘⼭会」がそろって登場します。⾼さ約2.7 メートルの威⾵堂々たる神将が北管の⾳楽に合わせ、厳かな⾜取りで街を歩き、参拝者や⾒物客に福を授けるとされています。

け ん か 山 ( 富 山 県 · 高 岡 市 )
伏木曳山祭りは、江戸時代に北前船で栄えた伏木の繁栄と伏木神社の春祭りに由来する行事で、毎年5月第3土曜日に開催されます。昼は漆や彫刻で飾られた豪華な曳山が町を巡行し、夜には数百の提灯が灯され幻想的な光景に包まれます。最大の見どころは「かっちゃ」と呼ばれる 曳山同士のぶつかり合いで、迫力ある衝突と観客の熱気が祭りを最高潮に盛り上げます。伝統と勇壮さが融合する迫力満点の祭りです。
6大友宮の紹介

北港朝天宮
北港朝天宮は雲林県北港鎮に位置し歴史が古く香火が盛んな廟で信徒の分霊は海内外に及び、台湾の媽祖信仰の総本山として知られています。1694年(康熙三十三年)樹璧和尙が中国福建·湄洲の朝天閣より媽祖の金身を迎えて渡海し 笨港に滞在して廟を創建し、当初は草廟に暫時祀り、1730年(雍正八年)に募金で再建し茅葺から瓦葺に改めその後の規模の基礎が築かれ廟名は「天后宮」と改められました。1812年(嘉慶十七年)、住持僧·浣衷が湄洲祖廟「朝天閣」からの分靈を記念して宮名を「朝天宮」と改称しました。1894年(清光緒二十年)、北港市街の火災が三川殿に及んだ際、全台湾の信徒の募金により名匠·陳應彬を招聘して改建工事を行い、その卓越した匠の技によって壮麗な廟宇が完成し、台湾本土の廟宇建築様式の古典的傑作と見なされています。北港媽祖の聖徳は広く伝播し敬慕され、当地には豊かな神迎えの伝統と国内外からの進香の熱潮が生まれました。北港朝天宮の建築は現在、国定古跡に指定されており、「北港朝天宮の迎媽祖」および「北港進香」は国定民俗に登録されています。宗教·芸術·文化の価値を兼ね備えた信仰の殿堂となってい。

朴子配天宮
朴子配天宮は三百三十年以上の歴史を持ち、配天宮の創建は布袋半月庄の先民·林馬と切っても切れない関係にあります。林馬は媽祖を深く信仰し、康熙二十一年(1682年)に湄洲の祖廟より媽祖(開基媽)の神像を恭請して自宅に奉安しました牛稠溪(現·朴子溪)畔で千年の樸樹の下に休んだ際、出発しようとすると媽祖が動かぬほど重くなり、請示したところ、この地に永く留まりたいとの御意志が示されたため、これが朴子の古名「樸仔腳」の由来となりました。1687年(康熙二十六年)に廟を建立して「樸樹宮」と称し、媽祖廟 の周辺には規模ある集落が形成され、有名な樸仔腳街が生まれました。この廟は県定古蹟に指定されています。

西螺福興宮
福興宮は天上聖母(媽祖)を主祭神とし、地元では「媽祖宮」または「西螺媽祖廟」と呼ばれ 古くから信仰を集めてきました。康熙五十六年(1717年)福建省·湧泉寺の明海禅師と商人の鄭時敏が、媽祖像を持参して螺陽に安置し、草廟(くさみや:草で建てられた廟)を建てて奉祀しました。媽祖の霊験が顕著で人々を守護したことから信仰がま すます盛んになり、雍正元年(1723年)には、西螺の商人と住民が資金を出し合って福興宮を改築しました。最初福興宮は西螺街の東端に建てられましたが、乾隆三十五年(1770年)、媽祖の託宣により廟を移転し西螺街の有力者や店主たちの決議によって旧廟を取り壊し、現在地に新たな廟を建立しました。乾隆五十一年(1786年)、林爽文事件が勃発し、当時の西螺街には平乱のため清軍が駐屯しました。官兵と住民は福興宮の媽祖の加護にすがり、ついに乱は鎮圧されました。その後、官府は抗清民兵を打ち破り、住民はこれを福興宮の媽祖の恩恵と受け止め、天下が泰平になったことから、福興宮の天上聖母を「太平媽」または「平安媽」と尊称するようになりました。

台中浩天宮
台中浩天宮の歴史は三百余年前に遡ります。当時、広東からの移住者が故郷より媽祖を勧請し、海上安全を祈願して渡台、沙轆の大庄地域で開墾を行いました。清の雍正元年(1723年)、陳厝庄に草廟を建立するため資金を募り、媽祖委員会を設立して天上聖母を主神として奉祀しました。清の咸豊六年(1856年)には、媽祖廟を元の地から大庄の現在地へ移転しました。新廟の落成と媽祖の顕聖により、地域は風調雨順で五穀豊穣となり、「大庄媽」の名声は広く知れ渡りました。参拝者は各地から絶え間なく訪れ、信仰圏は当初の大庄の管轄から大肚中堡五十三庄(現在の梧棲·沙鹿·龍井·大肚·清水など)へと拡大しました。
浩天宮に奉祀される天上聖母は一般に「大庄媽」または「潜水媽」と称され、地域信仰の中心であるのみならず、廟内には数多くの歴史的文物も保存されています民俗面では、「大庄媽北港求太進香回鑾遶境」および「走大轎」の二つが台中市の無形文化財に登録されています。

台中忠福堂
台中忠福堂の草創期は 陳冠宏(別名:陳東京)が志を同じくする信者たちを率いて台中金虎爺会·豐原金虎爺分會を設立し新港奉天宮の金虎爺將軍を主祀としたことに始まります民國108 年、
陳家が台南六合境柱仔行全臺開基永華宮より「保安廣澤尊王」の香火を迎請して台中·神岡の無極敍緣宮に安奉し、信者の礼拝を受けました。その神威を慕い感謝して同年、正式に台中忠福
會を設立し、開基保安廣澤尊王の金身を敍緣宮に造立して奉安しました民國 109年7月に正式に「台中忠福堂豐原金虎爺分會」へと昇格し、毎年の主な行事として金虎爺將軍が徒歩で新港
奉天宮および大甲聖母宮へ謁祖進香すること、また保安廣澤尊王が祖廟である台南六合境柱仔行全臺開基永華宮へ謁祖進香および祝寿大典へ赴くことは、かねてより民間における大きな盛会と
して古くから盛大に行われています。

木柵集應廟
木柵集應廟は台北市文山区に位置し、地 域の重要な信仰の中心であり文化拠点です。主祀は保儀尊王で、唐代の忠臣·張巡を奉るものであり、忠義をもって民を護り、疫を退けた神威によって深く信仰されています木柵の住民はかつて地方に疫病が流行した際、保儀尊王の神像を迎えて祀り、地域の安寧を願って廟を建立して以来 香火は絶えることなく続き、地域信仰の中心となってきました。「集應」という名は 渡台した先祖が「神恩広被 群集感應」を願って付けたもので神の加護への敬愛と連帯の精神を象徴しています。時代の推移とともに集應廟は数度の修復を経て堂々たる廟貌を保ち、木柵住民の重要な精神的支えとなっています。保儀尊王(別名「尪公」)は唐朝の著名な忠臣で、安史の乱の際に睢陽を守り忠節を貫いて殉国したと伝えられます民間では忠義の神として尊崇され、鎮煞·驅邪·保境安民のほか、平安や事業順調、疫病退散を祈願する神としての効験が信じられています。